中国茶の歴史       トップページへ

1.茶はいつから飲まれたか
 中国に「漢方は二千五百年。茶は四千年」という言葉があるそうです。漢方薬は二千五百年前から使われ出し、茶は四千年前からあると言うことだそうです。
 現在「茶」の木の原産地は雲南省と四川省に近い山間部とされています。その雲南省の南糯山に「茶樹王」と言われる大木があります。樹齢は八百年、主幹の直径1.08m、樹高9mといわれます。
 この大木の説明は「哈尼族の伝説によれば、すでに五十五代の人が茶を植えてきている」とされています。またこのような「茶」の大木は雲南省だけで三十件が確認され、中には樹高三十mのものあるとのことで、それらが自然種か栽培種か学術的に判断が下せないそうです。そうであるならば茶樹の栽培は相当な歴史を持っていることになります。
 中国の伝説では「農業や薬草の神」とされる「神農」が木陰で湯を沸かしているとき、一枚木の葉が鍋に落ちたが、その木の葉の落ちた湯が何とも芳しい香りがしたため、思わずその湯を飲んだ。これが「神農」の「茶の発見」といわれています。
 この伝説を彷彿とさせるものとして、雲南省のタイ族やワ族に現在まで伝わる「焼茶」とよばれる飲み方があります。枝ごと摘んできた茶葉を囲炉裏で炒ると、そのまま湯の鍋の湯に入れぐらぐらと鍋で煮て飲む方法です。
 この方法と人が最初に茶を飲料として利用した姿とは、余り大差がないと思われます。古代は現代より生活に火が身近にありました。薪として採ってきた小枝を囲炉裏にくべると、芳しい香りがしたので、これは使えると思ってお湯に入れて炊き出すことは、十分に考えられることです。
 茶の利用が余りに身近で、特段の技術も必要がないことは、逆に利用の起源を遡ることを難しくしています。そのようなことは専門家に任せて、我々は先を急ぎましょう。

2.歴史上の茶
 「茶」の聖典といわれる「茶経」によれば、喫茶習慣は「神農」氏の時代から始まり、周公旦も「茶」も楽しんだことになりますが、これは現段階ではまだ「伝説」に属する話です。歴史上の書物に「茶」の記載があったとしても、それが「生薬」(漢方薬)としてか、「食品」としてか、「飲料」としてか、その用途が解らなければ意味がありません。
 また、どのような状況を「喫茶習慣」の始まりと見るかによっても、結論がことなります。特に古代は茶樹を栽培するより、野生茶樹を利用したと考えるほうが妥当でしょう。ともすれば野生の茶樹が利用できる一部地域の「風土的習慣」から「茶」が「商品」として取引され、地域外の人々が最初から「茶」を飲むことを目的に、「茶」という商品を購入するようになった時点。つまり「茶」が商品として成立した時点、と小生は考えています。
 では最初にこのような記述が現れる文献を探す前に、「茶」を表す文字に付いて考えておかねばなりません。
 「茶」の意味として「茶」の文字が使われるのは「唐代」になってからです。それまでは「荼」と・「茗」めい・「舛」せん等の文字が使われていました。「荼」は「にが菜」の意味で薬用のキク科の植物です。これが「苦い」という共通点で「茶」の意味も含むようになったとされています。
 「茗」は字形から祭りの際に奉げられる植物のことでしょうか、舛はソムク・ムカウ・タガウの意味ですので、何か如術に使う植物でしょうか。どちらにしても中国は「漢字の国」です。新しいものには「新しい文字」が必要です。しかし、新しいものが普及するまでは他の字に「仮住まい」させてもらうしかありません。
 この三ツの文字が「茶」の仮住まいに選ばれたことは、「茶」が飲料となる前身は「薬草」であったことを偲ばせる感があります。
 さて文章に戻りましょう。これに該当する最初の文献は、前漢の宣帝の神爵三年(BC59)に、王褒(おうほう)が表した戯文「僮約」です。ここでの「僮」は「わらべ」の意味ではなく「しもべ」の意味です。
 つまり「しもべ」イコール「奴隷」との契約書の形にした戯れの文章ということです。この「僮約」に「包鼈烹荼」(ほうべつほうと)と「武陽買荼」(ぶようばいと)の文章があります。これは奴隷が毎日の仕事としてやるべきことを書かれた中にあります。「包鼈烹菟荼」とはスッポンを煮て「荼」を煮ることです。この場合の「荼」の字は、料理に使われるものとして「にが菜」の意味とされます。
 つぎの「武陽買荼」は「武陽」に「荼」を買いにいくことですが、この文章の舞台は四川省の「成都」です。「武陽」までは直線距離で70kmです。当時としては往復四日の遠くまで、料理用の菜を買いに行くでしょうか。ですのでこの場合の「菜」は「荼」の意味とされます。
 この前漢の宣帝時代には、遠くまで買いに行かねばなりませんが、産地や集散地まで足を伸ばせば、商品としての「茶」手に入ったのでしょう。この「茶」が一般に普及するには「唐代」まで待たなければなりませんが、その「唐代」に「茶」が「荼」の文字から独立して、「茶」の文字が成立します。

3.漢代以降のお茶
 残念なことに「漢代」にどのような茶が飲まれていたか、それを示す文献は現在のところ、発見されていません。それに最も近いものとして、次代「三国時代」の魏の張揖(ちょうしゅう)の著書、「広雅」に当時の「茶」のことが記されています。

『刑巴(けいは)の間、葉を採り、餅(へい)と作す、葉の老いたるものは、
 餅成するに米膏(べいこう)を以って、茗を煮て飲まんと欲すれば、
 先ず炙(い)りて赤色ならしめ、末に搗(つ)きて瓷器(じき)の中に置き、
 湯を以って澆覆(ぎょうふく)し葱・薑・橘子を用いてこれを混ぜる。
 それを飲めば、酒を覚まし、人を眠らざらしむ。』

と記されています。つまりこの時代の「茶」は葉茶ではなく、「黒茶」で述べたような「固形茶」の一種の「餅茶」ということになります。
 摘んだままの葉茶はいくら搗いても「餅茶」にはなり辛いでしょうから一旦は蒸したと思われます。
 次に若い葉はそのままでも餅状に成型できるが、成熟してしまった葉は粘り気が少ないのでしょう、米の糊を混ぜるようです。飲む時は、まず臼で搗いて粉末にして、それを磁器の器に入れ湯を指し、薬味をいれて飲むようです。これは後述します「陸羽」の「茶経」にいうのみ方とあまりかわりません。
 それ以上に「陸羽」が嫌う薬味を入れた飲み方そのものです。なにより荊巴の間とは、湖北省から四川省東部にかけての一帯をいいます。「武陽買茶」の「成都」や「武陽」とも同一地域といえるでしょう。「紙の発明」は「後漢時代」です。「三国時代」は「紙」は貴重品です。当然「前漢時代」にはありません。
 「茶」のようなデリケートな商品を販売するとすれば、その形態はこのような「固形茶」でしかないと考えます。これなら持ち運びも簡単ですし、糊を使って固めてあれば「茶葉」より湿気に気を使わなくて済みます。
 たとえ粉末にして湯を注いだ時、糊が解けて「茶」にトロ味がついたとしても、、薬味を入れることを考えると、その方が味の調和が良いかも知れません。「茶」の商品化は愛飲者を増やし、需要の高まりは原料の「茶葉」を大量に必要とします。
 そのような環境から「茶樹」の栽培が増加すると、良質の「茶葉」が大量に入手出来るようになると共に農家にとって貴重な「換金商品」の「茶」は各地に「製茶農家」を出現させ、地方地方に「銘茶」を誕生させたに違いありません。そのような社会的背景の成立を持って、「唐代」に「茶聖・陸羽」が舞台に登場します。

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11.唐の茶
 「茶経」の説明で「唐代」の「茶」がどのようなものであったかは、想像してもらえるでしょう。その「茶」の飲み方ですが、「陸羽」の説く方法は、まず「固形茶」を柔らかくなろまで炙り、紙袋に入れて精気が逃げないようにしてから冷まします。
 次に漢方薬で使う「薬研」(やげん)で粉末にします。それを紙箱の下が引き出しになった、絹張りの「篩」(ふるい)でとおした、きめ細かいものを使います。目の細かい絹の水濾しでろ過した水を釜で沸かします。湯が湧き出すと塩味をつけ柄杓一杯の湯を汲みだしておきます。
 竹箸で湯をグルグルかき回して、その中心に用意した「茶の粉末」を入れます。湯が沸騰寸前になると、汲み出しておいた水を釜に戻して沸騰を止める。
 これで「茶筅」(ささら)を使って点てた「抹茶」のようになり、茶碗に汲み分けて飲みます。
 この飲み方も、ここで使われる「固形茶」もあくまで支配者階級のものです。確かに「唐代」で「茶」は一般に普及しましたが、一般庶民は前述しました、「茶」に湯を注いで飲む「えん茶」という方法で飲んでいたでしょう。
 食べることに精一杯の庶民が、これだけの道具立てを揃えることは不可能です。いやそれよりも、庶民は現代に近い美味しい「茶」の飲み方を工夫していたかも知れません。


12.宗代の茶
 「陸羽」が活躍した「盛唐」から「晩唐」へと時代が下るに伴って、「餅茶」製法は発展し、「晩唐」になると蒸した。「茶」を臼で搗いて型に詰めるのでなく、蒸した「茶」を「しめぎ」に掛けてから、「すり鉢」で滑らかに磨り潰して、型に入れて成型する方法に発展します。
 この「しめぎ」は文献では図示されていませんので、想像する他は無いのですが、酒や油を搾る道具に似たものでしょう。この方法では「餅茶」より相当に緻密な「固形茶」が出来、これを「研膏茶」(けんこうちゃ)と呼び、時の皇帝へ献上していました。
 これが更に発展して「蝋面茶」(ろうめんちゃ)が造られるようになります。「固形茶」の表面が「蝋」のように緻密で艶やかな処からこの名があるとも、「茶」を茶を点てた時、表面に「ミルク状」のものが浮かぶので名づけられたとも言われています。「宗代」は文献上は「龍団鳳餅む」に代表される、「固形茶」全盛の時代ですが、その素地は「唐代」から始まっていたのです。
 「宗代」は慎ましやかで繊細な文化の時代です。万事派手好みの「唐代」とは時代精神が異なります。反面、豪華な貴族の生活を支えるために「膏血」(こうけつ)を絞られていた庶民は、「宗代」になると商品経済の発展から、生活水準を向上させることが出来るようになります。
 この時代「茶」の分類は「散茶」と「片茶」(へんちゃ)に大別されます。「散茶」には「末茶」も含まれ、その「末茶」は「末散茶」・「屑茶」(砕末、粉茶のことか)・「末茶」に分類されます。
 つまり、王侯貴族や士大夫の支配階級用の高級茶としての「片茶」と普段使いの庶民向けの「散茶」に大きく分かれたとも言えるでしょう。それだけ庶民の茶の消費量も多くなったのです。
 ただ「散茶」についてはどのような製法で、どのような製品に仕立てられたかが不明です。これは小生の想像ですが、「宗代」は文化的には「中華帝国」なのですが、軍事力は脆弱ですので、「茶葉交易」に用いる「茶」の量も膨大であったでしょう。「宗代」にこそ、「唐代」の「餅茶」製造法から派生して、現在の「固形茶」(片茶)が出来たと思っています。
 かりに当時の「殺青」方法が「蒸青」しかなかったとしましょう。蒸した茶葉を広げて乾燥させれば「緑茶」は完成します。この広げるという工程が簡単な「揉捻」に当たるのではないでしょうか、これで庶民用の散茶が造られ、この軽度の「揉捻」された「茶葉」を乾燥前に固形化したものが、初期の「片茶」(固形茶)だと思っています。
 前出の庶民用の「散茶」は軽度な「揉捻」ですし、当時、初期の乾燥は天日に頼らざるを得ないでしょう。となれば天候に左右され、大量に生産するとなれば乾燥不良の商品も多い筈で、これを防止するため「茶葉」を最初は刻むとかの方法が取られたでしょう。
 後に「宗代」の特徴の一つ、石炭の使用が一般化し、中華料理が現在の形に一変したように、燃料が確保されると、釜で炒りながら乾燥させる方法が発達し、「炒青緑茶」が誕生するのではないでしょうか。
 ここでは「緑茶」としましたが、茶摘した「茶葉」を何時蒸すかによって、「緑茶」も「青茶」も出来上がったと思っています。但し、当時は別種の茶として区分する意思は無かったでしょう。


13.これはもう芸術品、「宗の片茶」
 「晩唐」から「五代十国」に入ると「研膏茶」や「蝋面茶」は各地で造られるようになり。「五代十国」の「南唐」の後主「李U」(りいく)は文化人や詩人(詞)としても高名で、有り余る財力で「澄心堂紙」(ちょうしんどうし)や「李廷珪墨」(りていけいぼく)などの、「文房四宝」の名品を作らせたことでも有名な人物ですが、彼は「龍鳳茶」という極めつけの「片茶」を「建安の北苑」(福建省建甌県の東、鳳凰山付近)で作れらせました。
 「宗」はこれを受け継ぎ、「建安の北苑」を「帝室御用茶園」にして、「龍団鳳餅」を造り始めます。「龍茶」は皇帝や執政、親王や公主だけの専用とし、「鳳茶」はその他の皇族や大臣・将軍用とされ、それ以下の者には「白乳」や「的乳」といわれる茶が下賜されました。このように書くだけで「龍団鳳餅」が凄いものだと思われますが、これを上回るものが現れます。
 「仁宗朝」に(在位1022〜1063)、書家・文章家として名高い「祭襄」(さいじょう)が、「建安の北苑」を管轄する「福建路転運使」であったとき、「小龍団」を造り献上しました。この茶は「上品龍茶」と改名されますが、ことのほか「仁宗」が気に入り、誰にも下賜しませんでした。
 ただ一度だけ「中書省」と「枢密院」の正副八人の大臣に、「上品龍茶」を二つだけ下賜したことがあります。この「お茶」は二十八片で一斤の重さとされていますので一片は21.4gです。これを八人で分けたのですから一人は5.3g。どの大臣も家宝にして飲まなかったそうです。
 二代下がって「神宋朝」に「瑞雲翔龍」が造られると、「上品龍茶」は次品に落とされます。しかし、「宗」の皇帝の「片茶熱」は冷めるどころか益々熱中し、芸術家皇帝「徽宗」即位すると、次々と新しい「片茶」を作り出します。大観年間には「御苑玉芽」・「万寿龍芽」・無比寿芽」がつくられ、宣和(せんな)二年には究極の「龍園勝雪」が造りだされます。
 このように精製の精製を重ねて作り出される「片茶」が、現在の我々の感覚からして美味しいものか否かは以下の製造工程を読んで判断してください。


14.「片茶」の製造方法
 1.茶摘
   啓蟄の頃(3月5日頃)より茶摘を始めます。茶摘は夜明け前から日の出までとし、長時間摘んで畑を荒らすようなことは避けます。茶葉の摘み方も爪で断ち切るようにし、指で捻じ切るように摘んではなりません。
 このようにして摘んだ最高の茶葉は「小芽」(しょうが)・「雀舌」(じゃくぜつ)・「鷹爪」(ようそう)等と呼ばれます。これから「蕊」(ずい)を取り出し清水に浸して「水芽」に仕立てます。(茶葉の名称は茶書によって他に色々あります。
 2.製茶
   「水芽」を良く洗ってから蒸し、蒸しあがったものを「小しめぎ」に掛け水分を抜き、次に「大しめぎ」に掛けて粘り気を取り去ります。
 その後「片茶」一片に必要な量をすり鉢に移して、水を加えて磨り潰しますが、この加えた水が無くなるまで摩り続けなければなりません。また加える水の量は品質に大きく影響があるとされます。
 摩り上がった「茶葉」はよく手で揉んで滑らかにしてから、型に入れて成型します。型では円形や方形や華形の枠を「圏」(けん)といい、上下を押さえる。模様や文字が浮き彫りになったものを「摸」(も)といいます。
 3.乾燥と仕上げ
   成型された「茶」は、炭火の強火で炙ってから熱湯を潜らせることを、三回繰り返します。その後一晩火に入れて置きます。この火に入れるとは、炭火の熱い灰の中に置くことと解釈しています。
 文字通り火の中にいれると燃えてしまいます。(当然です。ハイ)翌日より「煙焙」の中に六〜十五日間入れて乾燥させます。この「煙焙」とは、薪の煙で乾燥させる「燻製炉」のようなものでしょう。
 こうして完全乾燥した「片茶」は湯気に当てて色出しを行います。次に密閉した室内で、扇いで急冷させると色艶が自然に出るとされています。
 この製造工程は「片茶」の一般的なもので、これが「龍園勝雪」になると、使用する「茶葉」は選び抜かれた芽の中の「蕊」一本を穿り(ほじり)出して、清水に晒した「銀の針」のようなものだけを使うとされます。
 ここまで来ると現代人からは、半分狂気が混じっているとしか思えません。


15.「片茶」の点て方
 「茶経」にいう「唐代」の点てかたは釜の中で行い。尚且つ、塩を調味料として使っていました。
 これが「宋代」なると、瑣末な点を除けば現代の「茶道」の「お点前」と変わらないものとなり、茶碗の中で点て、塩も使いません。
 また「茶筅」を使うのも「徽宗」の時代から始まりました。
 1.保存と準備
  「片茶」は原則として蒲の若葉で包み「焙炉」(ほいろ)に入れて置きます。この「焙炉」には三日一度火を入れ、「片茶」を常に人肌に暖めて置きます。「焙炉」に入れない「片茶」は「茶籠」に入れて高い所に置いて湿気をさけます。
 新茶でない場合は点てる前に、「片茶」の表面が一重か二重剥がれるまで湯に漬けます。次にとろ火にかざして乾燥させ、紙できっちりと包んでから、槌で砕き、「薬研」(茶の場合は茶ツで磨り潰します。
 丁寧にする場合は、石臼で挽きより細かい粉末にします。その後篩で通して「茶」の準備が出来上がります。
 2.点て方
  「茶」を一銭(3.7g)取って茶碗に入れます。少量の湯を注ぎ、むら無く練ってから湯を足し、茶碗の四分の一になると止めます。これで茶碗の中一面が真っ白に泡立ち、「水痕」が無ければ良く点てられた「お茶」ということになります。


16.元の茶
 超高級な「片茶」造りに励んだ「宋」は、余りにも繊細華奢な国風と丈弱な軍事力のために、最初は「金」に国土の半分を奪われ「南宋」となりましたが、豊かな江南の経済力を背景に、「北宋」に勝る経済力を誇りました。
 しかし最後には精強な「元」の軍事力の前に、広州湾の崖山に追われて、幼い皇帝と共に「宋」の命脈は海に沈みました。
 帝室御用茶園の「建安の北苑」も最盛期は四十六もの茶園を数え、茶摘に借り出される人々は壱千人を越えたと言われる程の繁栄を見せましたが、「元」の支配下では帝室御用茶園の地位を、「武夷山」に奪われます。これは「武夷山」が急に舞台に登場したのではなく、その前の「南宋」の頃より、茶産地としての名声を勝ち得ていた証です。
 小生は「武夷山」「片茶」によって名声を博したとは思えません。「元」の皇帝や高級官僚から帝室御用茶園に指定されるのは、それないの理由があるはずです。「元」の皇帝や高級官僚の「蒙古族」に、好まれる「茶」を生産できることが最大の理由でしょう。
 小生はそれを「宋代」にいう「散茶」ではないかと思っています。「蒙古族」が飲み慣れている「茶」は「散茶」を固形化した「餅茶」や「磚茶」です。つまり高級な「葉茶」を製造できる、技術開発がなされていたのではないでしょうか。
 しかし、その製品形態はまだ「末散茶」や「餅茶」の形かも知れませんが。なぜこのように思うのかと言えば、「南宋」の時代に新たに「栄西」により我国に「導入された「茶文化」に「片茶」が含まれていないことと、百年に満たない「元」の、次の王朝の「明」では、「貢茶」は「葉茶」に革められ、「片茶」は忘れ去られます。
 とすれば「元」の時代に「葉茶」の技術が完成し、その前の「南宋」にその萌芽があったと思うからです。
 「武夷山」に元の帝室御用茶園が置かれるきっかけとなったのは、「南宋」の首都「臨安」を攻略した、「元」の将軍「伯顔」(バヤン)の部下であった「高與」です。彼は「臨安」陥落(1276年)後、福建の平定に従事し、これを気に入った皇帝は「大徳六年」(1302年)「武夷山」に「御茶園」を置いたのです。
 「宋代」の片茶に「的乳」や「白乳」の名があったことは前述しました。この「白乳」がどんな「茶」であったかは小生はまだ知りません。これを知ることが自身の推理の正誤を判断できるのですが。この「高與」はもと「南宋」の臣下です。彼は「南宋」を裏切りましたが、「武夷山」に取っては功労者かもしれません。
 現在に「武夷山茶」に「石乳香」という「青茶」があります。この「茶」が「白乳」の子孫であれば面白いのですが。
 

17.明の茶
 「元末」の混乱の中から「漢民族王朝」を復活させたのは、乞食坊主から「民衆反乱軍」に身を投じた「明」の高祖「朱元璋」です。「明」の創生期は彼は定めた年号の「洪武」が示す通り、「尚武」の気風が漂う時代です。また「洪武帝」が社会の最下層の出身であったため、贅沢なもの、貴族的なものを極端に嫌い、農民等に手厚い施策を講じました。
 しかし、その反面では官僚や士大夫を信用せず、秘書警察を設けて彼等を監視し、少しでも皇帝を当てこすった文章を見つけると、「文字の獄」と呼ばれる、容赦のない粛清を実現しました。
 「明」は「底知れない影を従えた、破天荒に明るい時代」なのです。「宋」では究極まで高められた「片茶」の伝統を、「光武帝」は惜しげもなく切り捨ててしまいます。
 確かにその輝く「伝統」は、それを献上する農民に多大な苦労を強いていたのです。それ以上に「南宋」の混乱期から「元」の時代の中で、「片茶」そのものが魅力を失い、「葉茶」が日常の「茶」から、賞味するに足りる「茶」に進歩していたことが、より大きな原因だと小生は考えています。
 何はともあれ、「光武帝」は「貢茶」を「片茶」から「散茶」(葉茶)にすっぱりと切り替えてしまいました。
 その「明代の茶」を説明する方法として、同時代の「最高の茶書」とされる「許次しょ」が著わした「茶疏」(ちゃそ)を解説することにします。


18.茶疏
 この「茶疏」が著わされたのは、万暦三十年前後とされます。「明」の建国から約230年後、滅亡まで40年という時代です。著者の「許次しょ」については、広州の人で没年が万暦三十二年ということ以外、詳しいことは不明です。しかし、「明代」に著作し、その内容からも、相当に豊かな士大夫(読書人)であるようです。
 1.産茶
   この項では「茶疏」が著わされた万暦三十年前後(1600年前後)当時の「銘茶」が説明されています。まず、長江以北の「茶」として「六安茶」が挙げられています。名前の「六安」は群名で実際は「霍山県」の「大蜀山」に産し、生産量が最も多く、河南・山西・陜性の人々に飲まれているが、山のものは製法が悪く、食事用にしか使えない。
 江南では、「唐人」が第一と称する「陽羨」と、「宋人」が最も重んじる「建州」があり、今でも「献上茶」は両地のものが最も多いが、「陽羨」は伝統として名のみで、「建州」も最上と言えず「武夷山」の「雨前」(穀雨の前・4月20日頃)が最も優れている。
 近頃喜ばれるのは「長與県」の「羅崙茶」(字は異なる)で、これはおそらく古人のいう「顧渚の紫筍茶」であろう。山と山にはさまれたところを「崙」(字は異なる)といい、「羅」氏(五代の羅隠)が隠棲した処なので「羅」と名付けられた。「崙茶」は故は数箇所で作られていたが、今日では「洞山」のものが最も良い。
 「歙州」(きゅうしゅう)の「松羅」(しょうら)、「呉県」の「虎丘」、「銭塘」(せんとう)の「龍井」等は香気にあふれみな「崙茶」に拮抗する。往時、「郭次甫」は「黄山」を貴んだが、この茶は少し飲み過ぎると腹が張るので私が品を下げた。これを非とする者が多かったが、近頃、茶の味を知る者がこれを信じるようになった。
 「浙江」の産としては、「天台」の「雁宕」(がんとう)、「括蒼」(かっそう)の「大盤」、「東陽」の「金華」、「紹與」の「日鋳」(にっちゅう)等の茶が知られていて、「武夷」のものと優劣がない。
 しかし、名だたる産地の「茶」であっても、製造法や貯蔵法がいい加減であれば、一旦山から出されると味や香りが半減してしまう。「銭塘」の諸山は「茶」を産する処が非常に多いが、「南山」のものはみな良いが、「北山」のものはやや劣る。「北山」はどんどん肥料をやるので、茶樹は良く芽が吹くが、香りは返って薄い。往時は「睦州」(ぼくしゅう)の「鳩坑」(きゅうこう)、「四明」の「朱渓」を盛んに称したが、今日では品に入らない。
 「福建」では「武夷」の外に、「泉州」の「清源」がある。これを良い職人に造らせれば「武夷」に次ぐ品となるが、今は焦げてカラカラになっている場合が多いので失望する。
 「楚」(湖南省)の産としては「宝慶」があり、「てん」(雲南省)の産としては「五華」がある。これらは良く知られた有名なもので「天台」の「雁宕」より上である。その他、名山で茶を産するものはこれに止まることではないが、それらは私の知らないものや、まだ名の出ていないものなので、これ以上論及しない。
 以上が「茶疏」の「茶産」の要約ですが、ここで重要なことが二つあります。一つ目は「賞味」する「茶」と、日常の食事などに供される「茶」とに分化されていることです。
 つまり現在と同じように、ことさら言うまでもないように日常で「茶」を使い、それとは別に特別に味わうことを目的としての「茶」が存在しています。
 もう一つは、ここでは茶葉の産地を挙げていますが、まだ「銘茶」や「商品名」は挙げられてはいません。これは何を意味するのでしょうか。
 ここからは小生の得意の推理が始まります。当時は各地で色々の茶の栽培や製法が開発され、ある段階の完成はされていたでしょうが、まだそれは生産者個人の段階で、製品として固有の「製造法」にまでは確立されてはいなかったと見るべきでしょう。
 しかし、同じ産地でも「良い処」と「悪い処」に区分されていますので、産地が製造方法を確立し、一つの「銘柄商品」の完成させるのは、この「茶疏」が著わされた後、直ぐのことではないでしょうか。

 
19.清の茶
 清は女真族による征服王朝ですが、「入関」後は最も中華帝国らしい王朝でした。中でも乾隆帝の治世は文化的に史上最盛期で、政治的にも領土が史上最大の版図を持つ等、「乾隆の春」と賞賛される時代でした。この乾隆帝は銘茶の伝説にもその名の挙がる皇帝です。
 大雑把に見て、その時代までに現代の「茶の製法」の基礎が固まったのではないでしょうか。言い換えるならば清代の前半に「茶」は一般商品化し、各地で特色ある銘茶が生産され、飲み方も現代と同様の水準に発展した「ものと思われます。このため産地を限って生産する「帝室御用茶園」を設ける必要もなかったでしょう。
 ここでは中国の「茶書」ではなく、日本の長崎奉行の中川忠英が寛政年間に監修した「清俗紀聞」から、清代の「茶」がどのようなものであったかを見てみましょう。寛政年間は乾隆帝の治世の最晩年にあたります。当時の中国の風俗習慣を知るために、長崎に渡航する中国船の通訳から聴取した記事を纏めたものが「清俗紀聞」と言われますので、風俗習慣は正確に伝わっていると思われます。


20.清俗記聞から見たお茶   銀 1刄=米2キログラムで換算すると
 1.製茶                 銀 1刄=600円
   三月穀雨節(陽暦四月二十日頃)に茶を摘み取り、鉄鍋にて炒り、莚に移し、手を持って揉み絞り、その後数編鍋にて炒る、上茶は大方二十編程も炒るなり。
 2.茶名
   茶の名大略として、茶の地名や茶銘、値段が記載されています。
   朱蘭茶(茶銘。値段一斤につき二刄ほど)……100g=200円
     朱蘭は高さ3メートル程の木で、葉は茉莉花に似て、蘭の香りに似て、蘭の香りに似た黄色い花が咲く。つまり花茶ということになります。安徽省歙県松羅山産が有名との注があります。現在は同じ歙県から朱蘭花茶が生産されています。
 当時(寛政年間)日本に渡来する茶の中では第一の珍品として人気を博した。

   松羅茶(地名。値段一斤につき二刄より三、四刄)…100g=200〜400円 
   これは地名ということですから、安徽省歙県松羅山で生産されている茶ということです。そのためでしょうか値段に相当の差があります。現在のものと変わらない青茶と考えられます。

    武夷茶(地名。値段一斤につき上二刄、中七刄、下三〜四刄)
          100g=400〜1200円
    これも地名とされますから、現在のものと変わらない武夷山茶でしょう。さすがに値段も高く、現在のものと変わらない青茶と考えられます。
…以下はまた記入します。

 3.茶簍
   総じて茶は大いなる簍(かご)に入れて売り買いす。旅行または進物等には三十目五十目ほどずつ入る小簍を用い、あるいは錫鑵(すずかん)に入れる。もっとも錫鑵に入れて買うには鑵の大小によりて値段高下あり。日用の茶は磁壺・錫瓶(すずかめ)等にいれておくなり。

 4.茶の点て方
   茶煎じょうは、清水を炭火にてよく煮立て、煮えあがりたるとき、水を少し入れ、茶碗に茶を少し入れ、そのうえ滾湯を茶碗八文目まで入れ、しばらく蓋をしてすすむ。


21.終わりに
 清は17世紀中頃から20世紀初頭まで続いた長期政権です。この時代に現代の「お茶」の完成を見ると共に、「宣與紫砂」を代表とする中国茶器も現代の形に発展しました。そればかりか欧米特に英国での喫茶習慣も一般化し、紅茶文化が確立したのも清朝の恩恵でしょう。
 ある意味でこの王朝は「現代茶の時代」を創ったともいえます。反面、本格化した欧米への茶の輸出は「アヘン戦争」という理不尽な戦争を招き、中国の半殖民地化を進め、それは太平洋戦争(第二次世界戦争)での日本の敗戦まで長く尾を引く結果となりました。
 また、インドでの本格的紅茶生産の影には、植民地政策による反奴隷労働があったことも忘れてはならないことです。幽玄で優雅な「お茶」の世界の影に、私達と同じ人々の呻吟する苦労があったのです。
 残念なことに、旧時代の中国では歴史は士大夫と呼ばれる支配階級の人々によってしか残されていません。このため、茶の資料も「茶経」などの例外を除くとほとんどが趣味の域や自己の職責の域を出ず、個人の主観の強い散文形式の資料です。このため「現代茶」が何時確立されたのか、それを示すような製茶業者や製茶職人の手による明確な資料はありません。
 しかし、専門家でない私達がそこまで歴史にこだわるよりも、如何にすれば美味しいお茶を飲むことができるか、今後どんなお茶と巡り合うことができるかを、楽しみましょう。長い退屈な歴史を最後までお付き合いありがとう御座いました。

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